
その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代の学者や改革にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、頼白石について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、新井白石は久留里藩士の生まれ
新井白石(あらいはくせき)は、明暦の大火の翌日、明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で誕生。父は新井正済、先祖は上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪で、小田原征伐によって没落、父正済(まさのり)も浪人から上総久留里藩に仕官、白石が生まれた頃は目付をつとめていたということ。白石は、父が57歳、母が42歳の時の子だそう。
尚、白石の名前は、新井君美(きんみ)、通称は勘解由(かげゆ)で、白石は号、ここでは白石で統一。
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1-2、白石の子供時代
白石は幼い時から非常に聡明で、数え年3歳の時には字が書けて、6歳で漢詩を暗誦するまでだったとか、父の儒学の書物をそっくり書き写すことが出来たなどの話が。しかし聡明だが気性が激しくて、怒ると眉間に皺が出来てそれが「火」の字のようだったので、藩主土屋利直は「火の子」と呼び側に置いて可愛がったそう。白石は、延宝2年(1674年)、17歳で中江藤樹の「翁問答」を読んで儒学を志すことに。
1-3、白石親子、主君代替わりで辞職、藩を追放され浪人に
白石が20歳になったとき、可愛がってくれた藩主の土屋利直が亡くなり、息子の直樹が跡を継いだが、直樹は前藩主利直も嫌っていたし狂気の振る舞いがあったということで、白石の父は一日も出仕せず、辞職。
父の跡を継いだ白石を新藩主直樹は気に入らず、約1年後延宝5年(1677年)に藩を追放されて浪人に。しかも奉公構いとされたので、どこにも士官出来ない状態に。白石は貧困に負けずに儒学や史学の勉学に励んで詩文を学んだそう。尚、父正済が土屋家の内紛関与して追放となったとする説もあり。
土屋家のその後、吉良邸のお隣に
尚、土屋家は延宝7年(1679年)に土屋直樹の狂気を理由に改易となったが、祖先の功績など考慮されて、長男の逵直(みちなお)が旗本として存続。
元禄14年(1701年)に、土屋邸の隣に松の廊下の刃傷事件の吉良義央が越してきたことで、元禄15年(1702年)12月14日の早暁、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが始まると、逵直は浪士たちの申し状を承諾、吉良家には加勢しないと約束し、塀に沿って灯りを掲げて、堀を越えてくる者は誰であろうと射て落とせと射手を配置したことが、後に新井白石が逵直から聞き取った話として室鳩巣(きゅうそう)の「鳩巣小説」に。この逸話は、数々の講談や歌舞伎の題材に取り入れられて忠臣蔵では必ず登場。
1-4、白石、大老堀田正俊に再仕官
土屋直樹が狂気を理由に改易されると、白石親子の奉公構いも解けたので、白石は26歳の頃に、推薦されて大老堀田正俊に再仕官。しかし正俊は2年後に親戚の若年寄稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまったということ。その頃、将軍綱吉は生類憐みの令に反対する正俊と意見が合わず、また正俊も大老として傲慢になっていたというので事件の背後に将軍綱吉の陰謀説があるほど。
正俊の後を継いだ堀田正仲は、下総古河藩13万石のうち3万石を弟たちに分与した後、正俊の事件の懲罰的転封として、山形10万石へ、さらに翌年には福島10万石に転封に。しかし福島の実高はかなり少なかったために堀田家は窮乏して領民に重税を課したりとするようになったため、白石は35歳の時に再び浪人することに。
白石は学者なので、堀田家に仕えていたときの俸禄も書物の購入などで家に財産もないのによほどの決心があったとしか。
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