今回は四賢侯を取り上げるぞ。幕末に登場する賢い殿様たちですが、いろいろ知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末は勤王、佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、四賢侯について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、四賢侯(しけんこう)とは

四賢侯とは、幕末に色々と活躍した4人の藩主、元藩主、薩摩藩主島津斉彬、越前福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内容堂のこと。

このなかで島津斉彬は安政5年7月(1858年8月)に急死したが、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の3人は、その後も公私にわたって結束し、その後、重要な会議に島津斉彬の弟で、薩摩藩主の父である島津久光を加えたので、「四侯会議」「四賢侯会議」と呼ばれるようになったが、久光を斉彬の代わりにして新四賢侯ではないので念のため。

現在は、幕末の四賢侯とよばれるが、実際に本人たちが活躍していた時代から昭和の戦前頃まで、単に四賢侯(しけんこう)と呼ばれていたそう。

1-2、四賢侯の特徴

四賢侯は、それぞれ自分の藩での藩政改革を行って成功した藩主。

藩政改革に成功後、藩の財政が好転して収益を得たおかげで、藩の近代化を推し進める余裕があったということ、そして改革を成し遂げた有能な家臣を持っていたこと、なによりも本人が、家柄に関係なく有能な家臣を重用できる知性や教養や判断力を並み以上に持ち、かつ幕府に任せておけないと思うほど、自分の意見を持った有能な殿様であったという共通点があります。

また、後述するように、島津斉彬を除いて、他の3人はすべて他家から養子として入った人ばかり。それぞれ色々な事情があったにしろ、優秀な人材だから乞われて養子として藩主を継いだのですが、本人も思いがけなく藩主となったことで、なにかを成し遂げたいという志をもっていたのではないでしょうか。

そして時あたかも幕末の動乱期、アヘン戦争後のペリーの黒船来航以前から国防などについて家臣から知識や情報を得て自分も意見を持ち、また彼らの家臣たちが藩を超えて志士として交流したように、有能な大名どうしも情報交換や意見交換を盛んにおこなっていたわけで、気の合う同士が一致団結して、揺らぎ始めた幕政、将軍後継者問題にも口出しするようになったということ。

その前に、彼らの藩主のお家騒動や継承問題にも関わっています。

2-1、四賢侯のなれそめ

もとは松平春嶽の親しい友達という四賢侯ですが、お家騒動から藩同士の対立までの問題解決にも当たっていて、大名どうしとして江戸城で顔を合わせる以外にも、恩を感じたり信頼関係を築いて親しくなるきっかけに。

2-2、島津家の藩主交代に助言

島津藩主の世子斉彬は、曾祖父の前々藩主重豪のお気に入りで若い頃から英邁の呼び声の高い人でしたが、斉彬の父斉興は斉彬を嫌い、側室お由羅の産んだ久光を藩主にしたい目論見でなかなか藩主の座を譲らず。

そうこうするうちに斉彬は40歳を超え、家臣の間でも斉彬派と斉興、久光派で真っ二つの争いになり、壮絶なお家騒動(お由羅騒動)に発展。そして薩摩藩士の直訴で介入した島津斉彬の2歳年下の大叔父の福岡藩黒田長溥(重豪の息子)が、伊達宗城や松平春嶽とともに仲介役となって幕府の老中阿部正弘に訴えたところ、将軍家慶の計らいで斉興が強制的に隠居させられて、やっと斉彬が藩主になったいきさつあり。

2-3、土佐の山内家の継承も

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

土佐の山内家では、嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)に、34歳だった13代藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死し、子供がいないので、豊煕の弟豊惇(とよあつ)を末期養子と幕府に届け出て、幕府に認められたのは9月6日、しかし豊惇がなんと9月18日に25歳で急死。将軍へのお目見えもまだというのに藩主が急死、しかも豊惇には3歳の弟だけ。

山内家は断絶、土佐藩は取りつぶしの危機に、土佐藩家老らが奔走、前藩主の未亡人(島津斉彬の妹)から島津斉彬や親戚の黒田長博、もちろん伊達宗城、松平春嶽らの口添えで老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、分家の22歳だった豊信(とよしげ)後の容堂を養子として無事に藩主継承

\次のページで「2-4、伊達宗城の調停上手」を解説!/

2-4、伊達宗城の調停上手

また伊達宗城は、嘉永2年(1849年)に、肥前鍋島藩と福岡黒田藩の間が長崎の砲台建設を巡って対立したとき、宗城の正室が鍋島藩主直正の妹だし、福岡黒田藩の黒田長博は四賢侯仲間の斉彬の大叔父でもあるしと、老中阿部正弘の要請で間に入り円満解決に持って行ったという話もあり、宗城はそのお礼に蘭癖大名の黒田長溥から、発明されて間もないマッチをもらって見せびらかした話が。

伊達宗城も分家から養子に入った人ですが、10万石の外様大名の支藩にすぎないが宗城の調停上手で大名仲間に名が知れるように。

3-1、四賢侯、将軍継嗣問題で一橋派に

伊達宗城はまだ18歳の頃、水戸藩主斉昭と仲が良く、水戸屋敷にも遊びに行っていて斉昭の娘賢姫(佐加子)と婚約(結婚直前に病死)したこともあるほどの間柄なので、当然斉昭の息子の七郎麿こと慶喜についてもよく知っていたはず。また、松平春嶽は御三卿の田安家の出身で父は11代将軍家斉の異母弟、12代将軍家慶は従兄にあたるので、家慶が障害のあるたった一人の跡継ぎ家定よりも、正室の甥の慶喜を後継ぎにしたい意向があることを知っていたのでは。

そして斉昭は長男が亡くなった場合に水戸家を継ぐリザーブとして慶喜を養子に出さなかったのに、家慶が慶喜を気に入って一橋家を継がせ、血筋から行くと将軍から遠い慶喜を、ワンステップ将軍後継ぎに近いところに置いたが、慶喜を後継ぎにしたいという意向は老中に反対されたこと。しかしどうしても慶喜を自分の後継ぎにしたいと正式に発表する前に急死したために、伊達宗城や松平春嶽が将軍家慶の意志を継いで慶喜擁立を主張したと推測。

こういう事情を斉彬や容堂も聞き、4人ともこの有事の際には英邁の誉れ高い慶喜が将軍としてふさわしいとして、全面的に14代将軍に推して運動することに。

尚、島津斉彬は幕府の要請で、養女篤姫を13代将軍家定の正室として嫁入らせて大奥も慶喜支持にしようとしましたが、慶喜というよりその父の水戸斉昭の女性問題の印象が悪すぎて、篤姫は慶喜ではなく慶福派に。

3-2、将軍継嗣問題から安政の大獄へ

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12代将軍家慶が急死し、13代将軍家定が後を継いだばかりというとき、老中首座堀田正睦を中心に、一橋徳川家当主で水戸斉昭の7男慶喜を次期将軍、春嶽を大老とする運動が行われたが、春嶽は腹心の橋本左内を京都に派遣してこの動きを後押し。

しかし幕閣では彦根藩主の井伊直弼が大奥の指示もあって大老となり、紀州徳川家当主で将軍家定の従弟にあたる慶福(のちの家茂)を推す「南紀派」の対立となったが、将軍世子は慶福に決定。そして井伊大老は権力を掌握して一橋派を弾圧することに。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われた斉昭、春嶽、宗城、容堂らは強制隠居、謹慎に。また、井伊直弼が主導する安政の大獄が勃発し、春嶽の右腕だった左内らが投獄処刑されることに。

3-3、斉彬、兵を率いて上洛計画するも急死

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Hannah - Japanese Book 「島津斉彬言行録」, パブリック・ドメイン, リンクによる

一橋派の薩摩藩藩主島津斉彬は、大老井伊直弼に反発して藩兵5000人を率いて上洛、朝廷を守護して一橋派の復権を指示する勅諚を得て井伊の専横する幕府との対峙を計画、しかし斉彬が鹿児島で兵の調練中、水当りが原因で急死したために、出兵と勅諚計画は中止に。他の四賢侯は隠居と蟄居の処罰を受けたが、斉彬の死亡後に薩摩藩は斉彬父斉興が実権を掌握し幕府側になったために処罰なしに。

4-1、四賢侯、幕政に復帰

安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺後、安政の大獄の弾圧は収束、幕府の政策方針も転換し、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城ら3人となった四賢侯も、文久2年(1862年)4月に幕政への参加を許されるように。

\次のページで「4-2、島津久光の登場」を解説!/

4-2、島津久光の登場

島津久光は、兄斉彬の遺言で、久光の実子島津茂久(忠義)を補佐する国父(副城公)の立場となり、兄の遺志を継いだかたちとなって、兄が計画していた兵を率いての上京を敢行、朝廷から勅使を出させて幕政の改革推進を図ることに。

そして文久2年(1862年)久光は上洛して、公家らに働きかけ安政の大獄で処分された者の赦免と復権、松平春嶽の政治総裁職、一橋慶喜の将軍後見職などからなる建白書を提出。久光の建白は孝明天皇の勅許をえて、勅使として大原重徳が久光と薩摩兵を従えて江戸へ下向し、幕府と交渉、春嶽らの新しい役職が実現、そして春嶽らの説得で京都守護職として松平容保が就任することに。

4-3、四賢侯、文久の制度改革を実施

春嶽だけが役職に付いていますが、もちろん宗城や容堂もあれこれと春嶽にアドバイスしてバックアップ。春嶽らは、 それまで隔年交代で経済的に負担が重かった大名の参勤交代を3年に1度に改正、江戸での在留も100日に、人質として江戸に常駐だった大名の妻子も国元への帰国を許可することに。これは大名の負担を軽くしたが、江戸の街が寂れてしまったそう。

また、それまでの蕃書調所を洋書調所と改めて洋学研究をてこ入れし、榎本武揚、西周らをオランダ留学。幕府陸軍の設置、西洋式兵制である三兵戦術を導入、旗本の石高に応じて農兵または金を徴収する兵賦令の発布などが行われ、礼服の長熨斗、長袴の廃止で実用的な服装にと、服装や儀礼の簡素化。

そして井伊直弼が行なった大獄がはなはだ専断という理由で、井伊家に10万石削減の追罰、安政の大獄での取調べ者を処罰、安政の大獄で幽閉されていた者を釈放、桜田門外の変と坂下門外の変での尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦するなどを行ったそう。

尚、兵を率いて強引な改革をさせた島津久光は、薩摩への帰り道に生麦事件を起こしたということ。

4-4、四賢侯、京都で四侯会議に

松平春嶽は、熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎えて、藩政改革や幕政改革で小楠の意見を重視するようになり、文久3年(1863年)には上洛したが、京都では長州藩の尊王攘夷派の勢力が強く、春嶽や慶喜らの活動が制限されることになり、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとするが、春嶽は反対し、3月に政事総裁職の辞表を提出、受け入れられなかったが春嶽は勝手に京を離れて越前福井に帰国したため、3月25日に逼塞処分を受けて政事総裁職を罷免。6月、春嶽は横井小楠が計画した「挙藩上京計画」が発表されたが、内外の反対で8月に中止となったということ。

4-5、参与会議うまくいかず

この頃京都では8月18日の政変、池田屋の変、禁門の変と激動の時代だったが、春嶽は参与に任命されて11月に再上洛。

しかし参与会議ではなかなか意見の一致が出来ないので、文久4年(1864年)2月16日、中川宮(後の久邇宮)が参預諸侯を自邸に招待。この席上で泥酔した慶喜が、島津久光、松平春嶽、伊達宗城を指さして、「この3人は天下の大愚物、大奸物なので、後見職の自分と一緒にしないでほしい」と中川宮に発言。これに島津久光が大激怒して完全に参預会議を見限る形に。松平春嶽や薩摩藩家老の小松帯刀らが関係修復を模索するが、元治元年(1864年)2月25日に山内容堂が京都を退り、3月9日に慶喜が参与を辞任して結局体制崩壊。

4-6、四侯会議もだめだった

さらに慶喜が15代将軍就任後の慶応3年(1867年)5月、再び松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、島津久光が集まって四侯会議が催されたが、これは久光によって、幕府の権威を削減し、雄藩連合の合議をもってこれに代えようと画策したもので、朝廷関係者、一橋慶喜らをまじえ、兵庫開港、長州藩の処分が課題。しかし容堂は早々に諦め、春嶽は長州征伐には最後まで反対したものの、慶喜の巧みな懐柔で無力化に。

4-7、維新後の四賢侯

山内容堂は後藤象二郎の進言(元ネタは坂本龍馬から)で、15代将軍慶喜に大政奉還を建白、維新後、内国事務総裁の任に就くが、かつて家臣や領民であったような身分の者と一緒に仕事をするなんてと馴染めずに、明治2年(1869年)辞職。

松平春嶽は王政復古後の薩摩、長州の討幕戦争に賛成せず。維新後の新政府では、内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任したが、明治3年(1870年)に政務から引退。

伊達宗城は、慶応3年(1867年)12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)になったが、明治元年(1868年)の戊辰戦争では心情的に徳川、奥羽列藩同盟(本家の伊達家を実子が相続)寄りだったせいもあり薩長の行動に抗議して新政府参謀を辞任、明治2年(1869年)には、民部卿兼大蔵卿となり、鉄道敷設のためイギリスから借款を取り付けたり、明治4年(1871年)には欽差全権大臣となり、清の全権李鴻章と日清修好条規に調印など、外国貴賓の接待役が多かったが、すぐに引退。

5-1、四賢侯の逸話

色々おもしろい逸話があります。

5-2、松平春嶽は女装も

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不明。 - 福井市立郷土歴史博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

安政の大獄以前のこと、将軍継嗣問題について容堂と密談するために土佐藩邸にやってくるとき、松平春嶽は女装して女駕籠に乗って来たということ。また容堂は、春嶽が政事総裁職に任命されたとき、春嶽の屋敷へ行ったり自分の屋敷へ招いたりと議論しあって公武合体のために尽力。容堂は春嶽を慕っていたようで、手紙で春嶽を下戸先生と呼んだりしているということ。

春嶽は坂本龍馬も可愛がっていて、龍馬のために親しい容堂に脱藩の罪を許すよう頼んでくれたことも。

5-3、宗城は春嶽の先輩

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不明。 - 福井市郷土歴史博物館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

伊達宗城は、松平春嶽の10歳年上ですが、春嶽が11歳で藩主になったとき、先輩として藩主の心得や江戸城での作法を教えたということで、春嶽との関係が深く、なんと1000通以上の書状が残っているということ。また容堂は藩主継承のときの尽力で宗城に恩義を感じていたそう。

5-4、日本初の蒸気船の競争も

伊達宗城は、宇和島藩に蘭学者で適塾塾頭だった村田蔵六(大村益次郎)を招聘し、オランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じ、和船に大砲を積んで砲撃実験、さらに黒船に似た外輪を人力で回す和船を研究させたり、蒸気機関を、城下の何でも屋でおそろしく器用な嘉蔵(のちの前原巧山)を抜擢して製作開始、黒船来航から3年後、藩を挙げて試行錯誤した結果、実験的だが日本人の手で作った蒸気船が完成。しかしその前には外国人技師を雇って作った薩摩藩の蒸気船船が日本初とされているということ。宗城は斉彬と競争していたのかも。

大名のレベルでの志士活動をしていた藩主たち

四賢侯は三銃士みたいな華やかな活躍をしたわけではありませんが、身分制度がきっちりしていた時代のことでもあり、頭が良く話のわかる大名として、身分制度の壁のある志士たちが藩や日本のためを思って考えた意見を聞き入れ、自分の藩で実現したり幕府に話を通したりという存在でした。

また彼らは養子として大名を継いだ経過とか、その家の先祖が徳川家康に受けた恩とかを忘れられず倒幕というより公武合体派であったよう。そして明治維新後に身分制度が崩壊した後は、有能な人材たちと太刀打ちできるほどではなかったか、また新政府の方針が受け入れられなかったせいか、あっさりと引退して世を送ったのは、けっこう潔い感じも。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した四賢侯(島津斉彬 松平春嶽 伊達宗城 山内容堂)英邁な藩主を歴女がわかりやすく解説

今回は四賢侯を取り上げるぞ。幕末に登場する賢い殿様たちですが、いろいろ知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末は勤王、佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、四賢侯について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、四賢侯(しけんこう)とは

四賢侯とは、幕末に色々と活躍した4人の藩主、元藩主、薩摩藩主島津斉彬、越前福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内容堂のこと。

このなかで島津斉彬は安政5年7月(1858年8月)に急死したが、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の3人は、その後も公私にわたって結束し、その後、重要な会議に島津斉彬の弟で、薩摩藩主の父である島津久光を加えたので、「四侯会議」「四賢侯会議」と呼ばれるようになったが、久光を斉彬の代わりにして新四賢侯ではないので念のため。

現在は、幕末の四賢侯とよばれるが、実際に本人たちが活躍していた時代から昭和の戦前頃まで、単に四賢侯(しけんこう)と呼ばれていたそう。

1-2、四賢侯の特徴

四賢侯は、それぞれ自分の藩での藩政改革を行って成功した藩主。

藩政改革に成功後、藩の財政が好転して収益を得たおかげで、藩の近代化を推し進める余裕があったということ、そして改革を成し遂げた有能な家臣を持っていたこと、なによりも本人が、家柄に関係なく有能な家臣を重用できる知性や教養や判断力を並み以上に持ち、かつ幕府に任せておけないと思うほど、自分の意見を持った有能な殿様であったという共通点があります。

また、後述するように、島津斉彬を除いて、他の3人はすべて他家から養子として入った人ばかり。それぞれ色々な事情があったにしろ、優秀な人材だから乞われて養子として藩主を継いだのですが、本人も思いがけなく藩主となったことで、なにかを成し遂げたいという志をもっていたのではないでしょうか。

そして時あたかも幕末の動乱期、アヘン戦争後のペリーの黒船来航以前から国防などについて家臣から知識や情報を得て自分も意見を持ち、また彼らの家臣たちが藩を超えて志士として交流したように、有能な大名どうしも情報交換や意見交換を盛んにおこなっていたわけで、気の合う同士が一致団結して、揺らぎ始めた幕政、将軍後継者問題にも口出しするようになったということ。

その前に、彼らの藩主のお家騒動や継承問題にも関わっています。

2-1、四賢侯のなれそめ

もとは松平春嶽の親しい友達という四賢侯ですが、お家騒動から藩同士の対立までの問題解決にも当たっていて、大名どうしとして江戸城で顔を合わせる以外にも、恩を感じたり信頼関係を築いて親しくなるきっかけに。

2-2、島津家の藩主交代に助言

島津藩主の世子斉彬は、曾祖父の前々藩主重豪のお気に入りで若い頃から英邁の呼び声の高い人でしたが、斉彬の父斉興は斉彬を嫌い、側室お由羅の産んだ久光を藩主にしたい目論見でなかなか藩主の座を譲らず。

そうこうするうちに斉彬は40歳を超え、家臣の間でも斉彬派と斉興、久光派で真っ二つの争いになり、壮絶なお家騒動(お由羅騒動)に発展。そして薩摩藩士の直訴で介入した島津斉彬の2歳年下の大叔父の福岡藩黒田長溥(重豪の息子)が、伊達宗城や松平春嶽とともに仲介役となって幕府の老中阿部正弘に訴えたところ、将軍家慶の計らいで斉興が強制的に隠居させられて、やっと斉彬が藩主になったいきさつあり。

2-3、土佐の山内家の継承も

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

土佐の山内家では、嘉永元年(1848年)7月10日(実際は6月16日)に、34歳だった13代藩主山内豊熈(とよてる)が34歳で江戸で急死し、子供がいないので、豊煕の弟豊惇(とよあつ)を末期養子と幕府に届け出て、幕府に認められたのは9月6日、しかし豊惇がなんと9月18日に25歳で急死。将軍へのお目見えもまだというのに藩主が急死、しかも豊惇には3歳の弟だけ。

山内家は断絶、土佐藩は取りつぶしの危機に、土佐藩家老らが奔走、前藩主の未亡人(島津斉彬の妹)から島津斉彬や親戚の黒田長博、もちろん伊達宗城、松平春嶽らの口添えで老中首座の阿部正弘に働きかけてもらい、分家の22歳だった豊信(とよしげ)後の容堂を養子として無事に藩主継承

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