世界史

5分で分かる「アヘン戦争」貿易赤字に陥ったイギリスが取った行動とは?歴女が解説!

よぉ、桜木建二だ。今回は「アヘン戦争」について取り上げるぞ。

「アヘン戦争」は19世紀に中国の清王朝とイギリスで起こった戦争だ。この戦争が起こる原因には、イギリスが清にアヘンを持ち込んだことによるんだ。そもそも清とはどんな国だったのか?なぜイギリスは清にアヘンを持ち込んだのか?そしてどちらが勝利したのか?

それじゃあ詳しいことは歴女のまぁこと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室や名門ハプスブルク家やブルボン家、ロマノフ家などに興味がある。皇帝として中国に君臨した最後の王朝、清についても強い関心を持っていたまぁこ。今回は、19世紀に清とイギリスとの間で起こった「アヘン戦争」について分かりやすく解説していく。

1 清とは

image by iStockphoto

アヘン戦争とは清とイギリスとの間に起こった戦争です。ところで清とはどんな国だったのでしょうか?ここでは、清がどんな国だったのか見ていきましょう。

もともとはヌルハチが1616年に中国東北部に後金を建国。これがヌルハチの息子、ホンタイジの時代に国号をとしました。以来清は、1911年の辛亥革命で倒れるまで続いた王朝。17世紀後半から康煕帝(こうきてい)が国内を統一させ、ロシア帝国と条約を結ぶなど対外的にも発展していくことに。特に最盛期を迎えることになったのが、康煕帝の孫である、乾隆帝(けんりゅうてい)の時代でした。

1-1 乾隆帝の治世

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ジュゼッペ・カスティリオーネ – Scan: Chiumei Ho: The Glorious Reign of Emperor Qianlong. London 2004., パブリック・ドメイン, リンクによる

乾隆帝の治世で、清は最大領土を獲得することに。乾隆帝は自身のことを「十全老人」と称しました。これはどう意味かというと、戦いに10回親征し10回とも勝利を収めたという意。また領土の他にも、四庫全書を編纂。しかしこの内容は、多民族を侵略した清に対する批判などは載せないようにしていました。建築においても、紫禁城の修築円明園の造営などを行ったことでも有名ですよね。

また彼の治世は60年ととてもキリがいいですが、これは偶然そうなったのではありません。乾隆帝は祖父の康煕帝(こうきてい)を尊敬し、彼の在位が61年だったため、それを超えないように60年の在位で自ら退位したそう。祖父への尊敬がとても強く表れたエピソードですよね。

1-2 中国に根付く中華思想

18世紀の後半にイギリスから外交官のマカートニーが清を訪問。彼の目的は貿易の拡大でした。ちなみに時の皇帝、乾隆帝は離宮に滞在している最中。乾隆帝は「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」を要求しました。これはどういうことかというと、皇帝に対して三回ひざまずいてひざまずく度に床に頭をこすりつける儀礼を表す方法。なぜこのようなことを要求したのかというと、中国では自国が世界の中心であり、唯一最高であるとする中華思想があったため。そしてその他の国は「蛮夷(ばんい)」であるという考えを持っていたのです。そのため大使として訪れた他国の人々に対してそのようにふるまうことを要求。当然、マカートニーはこれを拒否することに。しかし妥協して、片膝を立てて敬意を示しました。残念ながら両者の会見は失敗に終わることに。

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中国では自らが世界で最も最高の存在で世界の中心であるという中華思想を持っていたんだ。そして外国からの使節や貿易は朝貢という形でしか認めてこなかった中国。だから外国の大使がやってきて対等な関係を築こうとしても上手くいかなかったんだ。

1-3 次第に衰退していく清

乾隆帝の時代に最盛期を迎えた清でしたが、彼の治世の晩年から次第に傾くことに。原因は、乾隆帝の寵臣、和珅(わしん)の横暴。和珅は乾隆帝と親戚関係となった後に、自身の親族を高官につけて官僚機構から大金を得るように。その結果、当時の清では財政難に陥ることに。次の皇帝、嘉慶帝の治世に和珅を自害に追い込みましたが、彼から没収した財産はなんと8億両。ちなみに清の年間の国家予算は7000万両だったそう。かなり多くの金額が和珅に流れていたことが分かりますね。

また人口が爆発的に増加したのもこの時期で、乾隆帝の治世後期では人口がおよそ3億6700万人に達しました。その後も人口は増え続け、1830年頃には人口が4億人を突破することに。この人口の急激な増加によって農民の土地不足や少数民族の住んでいた土地に他の民族が流入し、諍いがおこるようになりました

1-4 乾隆帝の息子、嘉慶帝が即位するも…白蓮教徒の乱勃発!

父帝の乾隆帝から帝位を譲られ即位した嘉慶帝(かけいてい)。しかし彼の治世は乾隆帝の寵臣の排除や白蓮教徒の乱が起こるなど波乱の状況に。白蓮教徒の乱は四川や湖北などの境界辺りの山間部で起こった乱はいつしか河南などまで広がりました。嘉慶帝は乱を鎮圧させるために自軍だけではなく、私設の義勇軍も立ち上げて鎮圧。こうして9年かけて乱を収束させましたが、多くの軍人の犠牲や2億両という莫大な費用を費やすことに

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清では、乾隆帝の時代で最盛期を迎えたが次第に陰りが見え始めることになったようだな。そんな最中にイギリスとの貿易の問題が起こることになるんだ。なぜイギリスは清にアヘンを密輸することになったんだろうか。それじゃあ次はアヘン戦争となる経緯について詳しく見ていくぞ。

2 アヘン戦争となる経緯

アヘン戦争が起こる背景には何があったのでしょうか。ここでは戦争となった背景について詳しく見ていきましょう。

2-1 清との貿易スタイル

ところで清と外国の貿易はどのように行われていたのでしょうか。

清は1757年から外国との貿易は広州としか行っていませんでした。ちなみにここで貿易ができるのは、「公行(コーホン)」と呼ばれる特許商人の組合に入っている人物のみ。また貿易のために訪れた外国人らは限られたエリアしか住むことができなかったそう。

2-2 戦争の遠因はイギリスの紅茶ブーム?

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アヘン戦争で清と争うこととなったイギリスの国内事情について簡単に触れておきます。当時のイギリスでは、紅茶を飲む習慣が広がっていました。ちなみに紅茶は、中国で製法が確立したもの。ヨーロッパに紅茶がもたらされたのは17世紀でした。庶民にまで親しまれるようになった紅茶を手にしようと、清との貿易では茶の輸入が増加。清との貿易での支払い方法が銀だったため、イギリス国内では銀が多く流出する事態となりました。これを解決しようと、イギリスは清でアヘンの吸飲の習慣を利用することに。なんとイギリスはインドでアヘンを作らせ、それを清に持ち込むことを考案産業革命が起こったイギリスでは綿織物をインドへ、インドからはアヘンを清へ、清は陶磁器をイギリスへ輸出することに。こうしてイギリス、インド、清の三角貿易が行われることに。

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いくら清でアヘンを吸飲する習慣があったとしても、それを清に密輸して多くの利益を得ようとするとは。恐ろしいことをイギリスは考えたもんだな。これによってイギリスは貿易赤字だったのが黒字に転換されることになったんだ。一方アヘンを持ち込まれた清では逆に銀の流出が増加し、社会不安が起こる要因に。しかしそもそもアヘンってどんなものなんだろうか。

2-3 そもそもアヘンとは?

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そもそもアヘンとは一体どんなものなのでしょうか。アヘンとはケシという実から分泌される乳液から抽出することでできる麻薬の一種。一説によると、アヘンは紀元前のエジプトで痛み止めや睡眠剤として使われていたそうな。ところがアヘンを大量に吸引してしまうと、頭痛や幻覚がひどくなり最終的には死に至ります。

ちなみに三角貿易によって清にはどれくらいの量のアヘンが持ち込まれることになったのでしょうか。これまでアヘンは医薬品として年間200箱程度の輸入量だったものが、1800年になると2000箱に。更に1830年には2万箱にまで増加することになりました。1箱が大体60キロだったそうなので、120万キロものアヘンが持ち込まれる事態に。

2-4 清国内にアヘンが蔓延、対策を講じるも…

こうしてアヘンが国内に多く入って来るようになった清。特に1827年からは銀が流入よりも流出の方が多くなる事態に。

清朝が重く受け止めたのは、銀の流出でした。清のアヘン商人はアヘンと引き換えに銀を輸出したため、大量の銀が清からイギリスへ流出。これによって清の国内では銀の相場が上がることに。清では税金の支払いが銀でした。このため、銀の流出によって銀と銅銭の交換レートが高騰することに。これによって国内では社会不安や経済不安が起こりました。もちろん、イギリスとの貿易は赤字に。この事態を変えるために、道光帝(どうこうてい)林則徐(りんそくじょ)を派遣してアヘンの密輸や密売を取り締まることに。

3 アヘン戦争~イギリスと清の対決!

アヘンの大量流入や、銀の流出によって危機感を感じた道光帝。彼は国内でのアヘン厳禁論を支持し、仲でも最も優れた厳禁賛成論を唱えていた林則徐を欽差大臣に任命しました。欽差大臣となった林則徐は、アヘンの取り締まりを強化していきますが、事態はより深刻なものへ発展していくことに。それでは、詳しく見ていきましょう。

3-1 厳しく取り締まった林則徐

道光帝から欽差大臣に任命された林則徐。彼は早速アヘンの取り締まりを行うことに。彼はイギリス商社や貿易業者からアヘンを供出させました。こうして供出されたアヘンの量は、なんと約2万箱にも及ぶことに。林則徐はこれらのアヘンを全て焼却処分としました。

林則徐の厳しい取り締まりを受けて、イギリス貿易監督官のエリオットがイギリス本国へ援軍を求めることに。こうしてイギリスでは1840年の初めに艦隊派遣を決定。艦隊派遣については、議会でも議論され、グラッドストーン反対演説を行いました。ところが、わずか9票差で艦隊派遣が可決されることに。こうしてアヘン戦争へと動き出すことになりました。

3-2 エドワード・ダンカンによる「アヘン戦争」

これは広州の海域で清とイギリスが戦う様子を描いたもの。手前に描かれている船は木造で帆が張っているのが分かりますね。これは清軍のジャンク船と呼ばれる船。対するイギリスは蒸気船や軍艦、輸送艦など総勢47隻もの軍勢で清と挑みました。

結果は誰の目に見ても明らか。画面右奥に描かれている武装蒸気機関船「ネメシス号」から放たれる大砲によって清軍のジャンク船は海の底へ沈むことに。ちなみにこの戦いによって蒸気船の威力が認められたため、イギリス海軍は蒸気船を導入していくことになりました

海戦以外でも、両者は争いました。林則徐率いる大軍が広州で待ちわびていましたが、イギリスはそこを避け一旦北上。その後南下していき広州に至りました。清軍は次々と撃退され、イギリスが優勢の内に戦いは終結することに。

3-3 条約を結ぶことに

アヘン戦争の開始から2年後。ついに清はイギリスに敗北することに。当時最先端の兵器を手にしていたイギリスと旧式の兵器しかない清では結果は目に見えていました。こうして南京条約が結ばれ、南京条約では、賠償金が2700万ドル、広州の他に4つの港を開くこと、香港島を割譲することが決定されることに。この結果は、これまで朝貢しか認めてこなかった中国にはとても屈辱的な内容。

またイギリスと南京条約を結んだ翌年に追加条約で、虎門寨(こもんさい)条約が結ばれました。この条約では清は関税自主権を奪われ、領事裁判権や再恵国待遇を認めさせられることに。こうしてアヘン戦争後に清は半植民地化が始まる事態を迎えました。

3-4 第二次アヘン戦争へ向かうことに

清がイギリスに敗北したことで決着がついたアヘン戦争。そして清にとってはかなり屈辱的な内容で南京条約が結ばれることに。清は更にアメリカとフランスともイギリスと同じような不平等条約を結ぶことになりました

その後の清では、国内が混乱することになりました。清国内では銀の高騰により税の負担が増加。また各地では抗租運動が頻発。1851年には洪秀全太平天国の建設を目指し広西省で蜂起し、53年には南京を占領するまで勢力が拡大しました。

問題は国内だけにとどまりませんでした。第二次アヘン戦争と呼ばれる、アロー戦争が起こりました。こうして清ではアロー戦争後に、近代化の改革を取り組む方向に舵を切ることに。

イギリスに敗れた清は開国させられることに

これまで清では、中華思想から外国との貿易は朝貢貿易というやり方をしていました。そのため自由貿易を求めたイギリスなどとうまく関係を持てずにいました。

一方のイギリスは、国内の茶の需要が高まり清との貿易が増加。支払いは銀を渡していたため、銀の流出に頭を悩ます事態に直面することに。解決策としてイギリスは清にアヘンを密輸し、銀の流出を抑えることに成功しました。かなり卑怯なやり方ですよね。これに対して清が林則徐によりアヘンの密輸の取り締まりを強化し、アヘンを持ち込ませないように対策を取りました。しかしイギリスのエリオットの援軍要請によって、イギリスは艦隊派遣を決定することに。

こうして清は旧式の兵器しかない状況で、近代化されたイギリスの艦隊と戦わなければなりませんでした。結果は清の完敗。そして不平等な条約を結ばされ、清は開国を余儀なくされることに。ここから中国は列強の半植民地化の餌食となっていくことになるのでした。

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