

「アヘン戦争」は19世紀に中国の清王朝とイギリスで起こった戦争だ。この戦争が起こる原因には、イギリスが清にアヘンを持ち込んだことによるんだ。そもそも清とはどんな国だったのか?なぜイギリスは清にアヘンを持ち込んだのか?そしてどちらが勝利したのか?
それじゃあ詳しいことは歴女のまぁこと一緒に見ていくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/まぁこ
ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室や名門ハプスブルク家やブルボン家、ロマノフ家などに興味がある。皇帝として中国に君臨した最後の王朝、清についても強い関心を持っていたまぁこ。今回は、19世紀に清とイギリスとの間で起こった「アヘン戦争」について分かりやすく解説していく。
1 清とは

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アヘン戦争とは清とイギリスとの間に起こった戦争です。ところで清とはどんな国だったのでしょうか?ここでは、清がどんな国だったのか見ていきましょう。
もともとはヌルハチが1616年に中国東北部に後金を建国。これがヌルハチの息子、ホンタイジの時代に国号を清としました。以来清は、1911年の辛亥革命で倒れるまで続いた王朝。17世紀後半から康煕帝(こうきてい)が国内を統一させ、ロシア帝国と条約を結ぶなど対外的にも発展していくことに。特に最盛期を迎えることになったのが、康煕帝の孫である、乾隆帝(けんりゅうてい)の時代でした。
1-1 乾隆帝の治世
ジュゼッペ・カスティリオーネ – Scan: Chiumei Ho: The Glorious Reign of Emperor Qianlong. London 2004., パブリック・ドメイン, リンクによる
乾隆帝の治世で、清は最大領土を獲得することに。乾隆帝は自身のことを「十全老人」と称しました。これはどう意味かというと、戦いに10回親征し10回とも勝利を収めたという意。また領土の他にも、四庫全書を編纂。しかしこの内容は、多民族を侵略した清に対する批判などは載せないようにしていました。建築においても、紫禁城の修築や円明園の造営などを行ったことでも有名ですよね。
また彼の治世は60年ととてもキリがいいですが、これは偶然そうなったのではありません。乾隆帝は祖父の康煕帝(こうきてい)を尊敬し、彼の在位が61年だったため、それを超えないように60年の在位で自ら退位したそう。祖父への尊敬がとても強く表れたエピソードですよね。
1-2 中国に根付く中華思想
18世紀の後半にイギリスから外交官のマカートニーが清を訪問。彼の目的は貿易の拡大でした。ちなみに時の皇帝、乾隆帝は離宮に滞在している最中。乾隆帝は「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」を要求しました。これはどういうことかというと、皇帝に対して三回ひざまずいてひざまずく度に床に頭をこすりつける儀礼を表す方法。なぜこのようなことを要求したのかというと、中国では自国が世界の中心であり、唯一最高であるとする中華思想があったため。そしてその他の国は「蛮夷(ばんい)」であるという考えを持っていたのです。そのため大使として訪れた他国の人々に対してそのようにふるまうことを要求。当然、マカートニーはこれを拒否することに。しかし妥協して、片膝を立てて敬意を示しました。残念ながら両者の会見は失敗に終わることに。

中国では自らが世界で最も最高の存在で世界の中心であるという中華思想を持っていたんだ。そして外国からの使節や貿易は朝貢という形でしか認めてこなかった中国。だから外国の大使がやってきて対等な関係を築こうとしても上手くいかなかったんだ。
1-3 次第に衰退していく清
乾隆帝の時代に最盛期を迎えた清でしたが、彼の治世の晩年から次第に傾くことに。原因は、乾隆帝の寵臣、和珅(わしん)の横暴。和珅は乾隆帝と親戚関係となった後に、自身の親族を高官につけて官僚機構から大金を得るように。その結果、当時の清では財政難に陥ることに。次の皇帝、嘉慶帝の治世に和珅を自害に追い込みましたが、彼から没収した財産はなんと8億両。ちなみに清の年間の国家予算は7000万両だったそう。かなり多くの金額が和珅に流れていたことが分かりますね。
また人口が爆発的に増加したのもこの時期で、乾隆帝の治世後期では人口がおよそ3億6700万人に達しました。その後も人口は増え続け、1830年頃には人口が4億人を突破することに。この人口の急激な増加によって農民の土地不足や少数民族の住んでいた土地に他の民族が流入し、諍いがおこるようになりました。
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