今日は天草四郎(あまくさしろう)について勉強していきます。「伝説」、「カリスマ」、「奇跡」……江戸時代の初期、まるでゲームの世界で登場するようなこれらの言葉が似合う少年がいた。

それが天草四郎であり、彼の人生はわずか16年と短いものだったが、歴史に名を残した。天草四郎とは何をした人物なのか、今回は天草四郎について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から天草四郎をわかりやすくまとめた。

語られる数々の伝説と奇跡

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天草四郎が起こした奇跡

天草四郎は一般的に天草四郎時貞の名で知られていますが、本名は益田四郎であり、ただしここでは天草四郎で統一します。歴史に名を残しただけでなく現代でも人気があり、歴史が苦手な人でも名前だけは聞いたことがあるのではないでしょうか。

最も、天草四郎の一生を年表化すると非常にシンプルで、「1621年に天草諸島にて誕生する」、「1637年に島原の乱の総大将になる」、「1638年に戦死する」のみでまとめられます。そんな天草四郎がなぜ歴史に名を残すほど有名なのか?……その理由の一つが彼が起こした数々の伝説や奇跡でしょう。

もちろん真実とは言い難いですが、天草四郎には次のような伝説や奇跡が語られています。「盲目の少女に触れたら目が見えるようになった」、「天草と島原の間にある湯島まで海上を歩いて渡った」、「豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の落とし子である」などの数々で、「実際は戦死しておらず生き延びていた」との説もありました。

予言の救世主

天草四郎は経済的に恵まれた家庭で誕生したため幼い頃から学問に親しんでおり、教養に優れていた彼は生まれながらにしてカリスマ性があったようです。また、天草四郎は誕生においてもエピソードが存在し、生まれてくることを予言されていた救世主とも言われています。

1614年のこと、当時幕府はキリシタンの弾圧を行っており、その時宣教師ママコスはある予言をしてその地を去りました。その予言とは「25年後に天変地異が起こって人類は滅亡の危機に晒される。しかしその時、天人に扮する16歳の少年がキリストの教えに帰依する者達を救う」というものです。

その予言どおりに現れたのが天草四郎であり、生まれ持ったカリスマ性と教養の高さから、彼が予言の救世主と考えられました。最も、こうした云われはいずれも非現実的かつ根拠のないものであり、現実に天草四郎の身に起こった出来事に注目すると、そこには悲しい事実があります。

キリシタンの安息の地から地獄へと変わった島原

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キリシタンの地・島原

天草四郎は1638年に幕府との戦いで戦死、その戦いとは前年……つまり1637年に起こった島原の乱です。そこで、島原の乱について学んでいきましょう。天草四郎だけでなく多くの農民が命を落とした悲しい戦い、島原の乱を起こした農民の多くはキリシタンであり、天草四郎もまたキリシタンでした。

最も、日本では1596年に禁教令を出してキリスト教を禁止していましたが、ただそれに対する処罰などはなく、禁止とされていただけで本格的な取り締まりや弾圧などはありません。実際、禁教令が出された後も布教活動は行われており、キリシタンであることはさほど問題ではありませんでした。

しかし1612年、慶長の禁教令が出されたことをきっかけに、キリスト教の弾圧は強化されます。さて、島原では多くのキリシタンが生活しており、大名の有馬晴信もまたキリシタンだったため、島原の地は隠れキリシタンを匿うなどの寛大な対応がなされていました。このため、キリシタンにとって島原は居心地の良い場所だったでしょう。

松倉重政と松倉勝家の暴挙

しかし、所領代えによって松倉重政が島原を治めることになると、幕府からの指摘もあってキリシタンに対して厳しい弾圧を行うようになったのです。松倉重政は納税ができない者やキリシタンに対して惨い拷問を繰り返しており、それによって多くの農民が処刑されました

また、島原城の改築などの費用を補うため、農民から過剰な税を取り立てていたのです。もちろん、税を納められない者は厳しく罰せられ、キリシタンにとって安らぎの地であった島原は地獄へと一変します。やがて松倉重政は死去、これで地獄から解放されると思った島原の民でしたが、後を継いだ松倉勝家もまた残虐で身勝手な人間でした。

松倉勝家はむしろ以前以上に厳しい税の取り立てを行い、人々をより一層苦しめます。そんな中、1634年には悪天候による飢饉が起こりますが、松倉勝家はそんなことは知らないとばかりに税を取り立て、島原の人々の暮らしはもう限界に達していました。

1637年10月・島原の乱勃発

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日本の歴史上最大規模の一揆

我慢の限界に達していた島原の人々は、密かに一揆を計画していました。さらに同時期、天草でも一揆が計画されており、この時総大将として選ばれたのが当時16歳の天草四郎です。最も、まだ16歳の天草四郎は戦術に長けているわけでもなく、総大将に任命されたのは神の子と言われる人気が理由でしょう。

実際、一揆の指揮をとっていたのは父である増田甚兵衛や浪人達とされており、天草四郎はその人気によって総大将と祭り上げられたのかもしれませんね。そして1637年の10月、計画していた大規模な一揆がとうとう勃発、それが島原の乱であり、つまり島原の乱とは歴史上最大規模の一揆のことです。

島原の農民達はまず代官所を襲撃して代官を殺害、さらに島原城下に火を放つと略奪を行って武器や食料を調達します。その数日後には天草でも反乱が発生、そこには農民だけでなく島原藩を離反した武士なども含まれていました。そして、島原で一揆を起こした勢力と原城にて合流したため、その勢力は37000人もの規模になったのです。

籠城する反乱軍の限界

大規模な一揆となった島原の乱、37000人もの勢力を集められたのは天草四郎のカリスマ性が理由だったのかもしれません。この一揆を鎮めるため幕府も援軍を送りますが、これだけの勢力をすぐに鎮圧するのは難しく、合計3回の戦闘を繰り広げた末にいずれも幕府軍は敗北しています。

ついには幕府軍の指揮官である板倉重昌も戦死、もはや幕府だけでは手に負えず、オランダ船にも援軍を依頼して海上からも砲撃しました。こうした攻撃で一揆を起こした反乱軍にも死傷者が出ますが、降伏されるまでには至らず、そこで幕府軍は作戦を変えることにします

その作戦とは兵糧攻め……反乱軍の食糧補給路を断つことで弱らせる作戦です。幕府軍のこの読みは当たっており、実際に討ち取った反乱軍の一人を解体すると胃の中には海藻しか入っておらず、それは原城に籠城する反乱軍の備蓄が底を尽いている証拠でもありました。勢いを見せつつも、反乱軍の精神状態は限界まで追い詰められていたのです。

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悲惨な結末・天草四郎の死

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幕府軍の襲撃

籠城する反乱軍は、備蓄が底をついたことで戦力にならない者を殺害するなどの行為を城内で行っており、そこで天草四郎は今一度結束を高めようと尽力します。洗礼名・フランシスコの名前で法度を出す天草四郎、人々もそれを受けて死ぬまで戦う覚悟を持って籠城を続けました。

一方の幕府軍、兵糧攻めが成功すると今度は天草四郎の家族を人質にとって降伏させるための交渉を行いますが、天草四郎をはじめとする反乱軍はこれに耳を貸そうとせず、籠城による抵抗を続けます。最も、幕府軍も幕府軍で例え反乱軍が降伏しても許すつもりはなく、皆殺しの制圧を考えていたでしょう。

反乱軍の籠城による抵抗が続いておよそ3ヶ月経過した1638年の2月、これまで襲撃のチャンスを伺っていた幕府軍がとうとうそれを決行します。原城の本丸に流れ込むと反乱軍を一気に制圧、と言うよりもそれは虐殺に近く、観念して集団自決する者もいる中、天草四郎は討ち取られて戦死しました

島原の乱の終わりと松倉勝家の処分

こうして島原の乱は天草四郎の死、そして一揆を企てた人々が皆殺しにされて終わりました。厳しい税を強いられて拷問・虐殺された農民が報われない悲しい結末を迎えましたが、救いだったのは諸悪の根源である松倉勝家が処分されたことでしょうか。

松倉家の屋敷からはキリシタンの道具や遺体が多数見つかり、不審に思った幕府によって松倉勝家は取り調べを受けることになります。その結果、松倉勝家の農民に対する数々の残虐で非道な仕打ちが発覚、松倉勝家は反乱を招いた罪により大名としては異例の斬首の刑となりました。

こうして、神の子ともてはやされた天草四郎は、皮肉にもそのカリスマ性が災いして一生を振り回され、16歳の少年でありながら島原の乱の総大将に任命された挙句、最期は不幸な死を遂げたのです。ちなみに、天草四郎の歴史は天草四郎ミュージアムとして熊本県上天草市にある記念館でより深く解説されていますよ。

キリシタンへの幕府の警戒

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島原の乱による教訓

江戸時代、幕府が行った政治政策として鎖国と呼ばれる対外政策が挙げられますが、実はその要因となったのが島原の乱です。島原の乱では多くのキリシタンが団結して一揆を起こし、挙句幕府軍が苦戦するほどの籠城を続けました。幕府軍は、そんなキリシタンの団結力を危惧したのです。

このため1639年にポルトガル船の入港を禁じて対外政策を開始、キリスト教をはじめとする外国の思想や宗教がこれ以上広まらないようにしました。さらに反乱軍が廃城に籠城したことから、一国一城を徹底させて廃城を完全に取り壊す策も実施したのです。

そしてキリシタンに警戒した幕府は江戸の遠くに位置する九州全土の支配体制も強化、長崎奉行を常駐させて、島原の乱の再来が起こらないよう警備を強化しました。ちなみに、キリシタン発見のための密告による奨励踏み絵も、この島原の乱がきっかけで行われるようになったのです。

天草四郎に関する様々な説

天草四郎については最初でも奇跡や伝説の数々をお伝えしましたが、戦死したとされている天草四郎が生き延びていたという説もあります。これは反乱軍が殺害された後、天草四郎の首がどこにも見つからなかったことが理由であり、そもそも幕府軍は天草四郎の顔を知りませんでした。

そこで、幕府軍は討ち取った者の中から少年の首に限定して母親に見せ、母親が泣き崩れたことからその少年を天草四郎と断定したのです。そのため天草四郎戦死の根拠は乏しく、そのせいか天草四郎は日本を脱出してフィリピンに逃亡してまだ生きているという説が流れました。

またそれ以前に実在を疑う意見もあり、天草四郎は存在しなかったとされる説まで存在しています。奇跡、伝説、さらには生存説や実在を疑問視する意見など、本来あり得ないと考えられる数々の説も不思議と「天草四郎ならあるいは」と思ってしまいますね。

天草四郎を覚えること=島原の乱を覚えること

「天草四郎を覚える=島原の乱を覚える」と解釈して構わないでしょう。天草四郎には様々な奇跡や伝説が語られていますが、もちろんいずれも根拠はなく、内容から判断してとても真実味があるとは思えませんからね。最も、人物の特徴を知る意味でそれらを覚えるのは良いですが、歴史上の事実と言えるものではありません。

それよりも、天草四郎が総大将として勃発した島原の乱を中心に覚えるべきであり、そうすれば天草四郎がキリシタンであることや、なぜ総大将に任命されたのかなど、天草四郎の人間性も分かってくるでしょう。

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日本史歴史江戸時代

数々の奇跡と伝説を残す神の子「天草四郎」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は天草四郎(あまくさしろう)について勉強していきます。「伝説」、「カリスマ」、「奇跡」……江戸時代の初期、まるでゲームの世界で登場するようなこれらの言葉が似合う少年がいた。

それが天草四郎であり、彼の人生はわずか16年と短いものだったが、歴史に名を残した。天草四郎とは何をした人物なのか、今回は天草四郎について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から天草四郎をわかりやすくまとめた。

語られる数々の伝説と奇跡

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天草四郎が起こした奇跡

天草四郎は一般的に天草四郎時貞の名で知られていますが、本名は益田四郎であり、ただしここでは天草四郎で統一します。歴史に名を残しただけでなく現代でも人気があり、歴史が苦手な人でも名前だけは聞いたことがあるのではないでしょうか。

最も、天草四郎の一生を年表化すると非常にシンプルで、「1621年に天草諸島にて誕生する」、「1637年に島原の乱の総大将になる」、「1638年に戦死する」のみでまとめられます。そんな天草四郎がなぜ歴史に名を残すほど有名なのか?……その理由の一つが彼が起こした数々の伝説や奇跡でしょう。

もちろん真実とは言い難いですが、天草四郎には次のような伝説や奇跡が語られています。「盲目の少女に触れたら目が見えるようになった」、「天草と島原の間にある湯島まで海上を歩いて渡った」、「豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の落とし子である」などの数々で、「実際は戦死しておらず生き延びていた」との説もありました。

予言の救世主

天草四郎は経済的に恵まれた家庭で誕生したため幼い頃から学問に親しんでおり、教養に優れていた彼は生まれながらにしてカリスマ性があったようです。また、天草四郎は誕生においてもエピソードが存在し、生まれてくることを予言されていた救世主とも言われています。

1614年のこと、当時幕府はキリシタンの弾圧を行っており、その時宣教師ママコスはある予言をしてその地を去りました。その予言とは「25年後に天変地異が起こって人類は滅亡の危機に晒される。しかしその時、天人に扮する16歳の少年がキリストの教えに帰依する者達を救う」というものです。

その予言どおりに現れたのが天草四郎であり、生まれ持ったカリスマ性と教養の高さから、彼が予言の救世主と考えられました。最も、こうした云われはいずれも非現実的かつ根拠のないものであり、現実に天草四郎の身に起こった出来事に注目すると、そこには悲しい事実があります。

キリシタンの安息の地から地獄へと変わった島原

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