
4-4、囚人切り放ちのきっかけに
明暦の大火の際に、小伝馬町の牢屋奉行の石出帯刀吉深が、火が迫ってきたので牢に入った罪人たちを哀れんで、火事から逃げて命があれば必ず戻ってくるように申し伝えて罪人たちを一時的に解き放つ、「切り放ち」を独断で実行。罪人たちは涙を流して吉深に感謝、全員が約束通り戻ってきたということ。吉深は感激して「罪人たちは大変に義理深い者たち」として「死罪も含めた罪一等を減ずるように」と、老中へ進言し、減刑の処置が行われたそう。以後、緊急時の牢屋の「切り放ち」が制度化されることに。
4-5、明暦の大火の消防の体制は
明暦の大火の当時は、寛永20年(1643年)、譜代大名を4組ごとに編成した大名火消が創設されていて、町火消としては慶安元年(1648年)に、火災発生時には火元の町人が全員参加で消火活動にあたらせ、不参加者は罰金、2時間交替の夜番、町役人による見回りなどの「駆付火消」が制定され、各家では手桶に水を汲みおきはしごを用意などが命じられていた程度。
現在のように水道や放水車もないうえ、大名火消しは江戸城周辺や武家屋敷オンリーで、燃えやすい木造の建物が立ち並ぶという構造的な問題もあったということ。
4-6、林羅山は蔵書が焼失してショック死
当時74歳の高名な儒学者林羅山は、自邸と書庫が焼失したことで衝撃を受けて4日後に死去。
4-7、復興と財政赤字
明暦の大火からの復興と都市改造によって江戸は大都市の都市基盤が整い、人口が集中し、経済活動が活性化することになったが、復興のための費用は莫大なものとなり、幕府の慢性的な財政赤字のきっかけに。この財政危機のために幕閣は財政政策に対する関心を高めていき、様々な改革が断行されることに。
4-8、その他の逸話
当時、江戸に参府に来ていたオランダ商館長ツァハリアス・ヴァグナー一行も大火に遭遇。
また、将軍家の家宝で天下三肩衝のひとつ楢柴肩衝(高名な茶入れ)がこの大火で破損し修繕されたが、まもなく所在不明に。
そして多くの名刀のほか、侍諸氏の常備の刀も多く焼けたせいで、数万振の規模の刀剣需要が起こり、それが「寛文新刀」といわれる鍛刀の盛り上がりにつながったということで、長曾祢虎徹、江戸法城寺正弘などの江戸の刀工に加えて、大坂新刀の津田助広、井上真改、肥前陸奥守忠吉などの名刀工が続出することに。
未曽有の大惨事に謎を呼ぶ火元、幕府の対応はさすがの保科と信綱
明暦の大火は火事と喧嘩は江戸の華と言われた江戸で起こった最大級の火事として有名。火元とされた本妙寺の振袖の話はオカルトっぽく、振袖火事という別名にもなっているのにいまさら作り話といわれても困るのですが、隣接の老中屋敷が火元で隣の本妙寺がそういう伝説を作って火元を引き受けたというのは、それ以上に興味深い話ではあります。また、江戸幕府は武家社会とはいえ、被災民に対して行った救済策や江戸城の天守閣を再建しなかったのは、当たり前とはいえ名君保科正之と松平信綱と感心してしまうはず。
大惨事で多くの犠牲者が出たのは何百年もたった今読んでも心が痛みますが、命は助かったのに、大事な蔵書が焼失したショックで亡くなったという高名な儒者林羅山にも、読書家の端くれとしてはかなり同情してしまうかも。