日本史歴史江戸時代

江戸時代最大級の大災害「明暦の大火」3大火事のひとつについて歴女がわかりやすく解説

2-1、明暦の大火の火元は

これだけの大火災ですが、火元となった場所には諸説あり。

2-2、本妙寺失火説

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Tobosha (逃亡者) – 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

本郷にあった本妙寺の失火が原因とする伝承は、振袖火事の別名の由来にも。

この話は、まず、江戸麻布の裕福な質屋、遠州屋の娘梅乃(17歳)が、本郷の本妙寺に母親と墓参りに行った帰りに、上野の山ですれ違った寺小姓らしき美少年に一目ぼれ。梅乃はこの日から寝てもこの美少年寺小姓のことが忘れられずに食欲もなくし、寝込んでしまう。そして両親に美少年寺小姓が着ていた服と同じ、荒磯と菊の柄の振袖を作ってもらって、その振袖をかき抱いて思い焦がれる日々だったが、病は悪化して梅乃は死亡。両親は葬礼の日、供養のために梅乃の棺に形見の振袖をかけたそう。

当時の風習として棺にかけられた遺品などは、本妙寺の寺男たちのものとなり転売に。そして上野の町娘きの(16歳)のものとなったが、きのも病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、梅乃の命日に本妙寺に持ち込まれたということ。寺男たちはまたその振袖を売り、振袖は別の町娘いく(16歳)の手に渡ったが、いくも病気で亡くなり、振袖はまたも棺にかけられて本妙寺に。

3度目となればさすがに寺男たちは因縁を感じ、住職がこの振袖を寺で焼いて供養するため、読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、北方から突然強風が吹き、裾に火のついた振袖が空に舞い上がって寺の軒先に舞い落ちて火が燃え移り、たちまち炎が大屋根を覆ったうえに突風に煽られ、湯島6丁目方面、駿河台へと燃え広がって、ついに江戸の町を焼き尽くすことに。

この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、明治後に小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著したが、伝説の誕生は大火後まもなくの時期で、同時代で明暦の大火を取材した浅井了意は「作り話」と結論づけたそう。

2-3、隣の老中が真犯人で本妙寺が火元を引受けた説

じつは火元は老中阿部忠秋の屋敷だったが、老中の屋敷の火の不始末が原因ということが明らかになると、幕府の威信が失墜してしまうために、幕府が阿部の屋敷の隣の本妙寺が火元ということにして、因縁の振袖の話を広めたとする説。

なぜかといえば本妙寺は、これだけの大火事の火元なのに、明暦の大火後も取り潰しにあわず、元の場所に再建を許され、触頭(各宗派ごとに寺社奉行などから任命された特定の寺院のことで、本山及その他寺院との上申下達などの連絡、地域内の寺院の統制も行う)にまで格が上がって明暦の大火前より大きな寺院となっていること。そしてその後、大正時代にいたるまで、老中の阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどが理由。

また明治以後になって本妙寺が「本妙寺火元引受説」を主張しているそう。

2-4、幕府による放火説

当時の江戸は、急速な発展での人口増加で、住居の過密化、衛生環境の悪化からの疫病の流行、治安の悪化で連日のように殺人事件が発生する有様で、都市機能が限界に来ていたということ。しかし都市改造をするためには、いつの時代でも住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁に。

そこで幕府は江戸市街を焼け野原にし、一気に都市改造をするよう計画したという説あり。実際、明暦の大火後に都市改造が行われたのだが、江戸城の本丸に天守閣まで焼失という大きな被害があったことを考えると、幕府が計画して放火したとしても、お粗末としか言い様が。

2-5、由比正雪の残党の放火説

当時、巷に最も広まっていた出火の原因は不逞浪人による放火で、6年前に幕府転覆を図った由井正雪一派の慶安の変の残党が報復のために放火した説も。

3-1、明暦の大火後の幕府の対応

このときの幕閣は老中酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋に加えて大政参与の保科正之、井伊直孝らがいたが、明暦の大火の際に中心となって活躍したのが松平信綱。
江戸城本丸の焼失で将軍家綱以下幕閣は西の丸に移った際、信綱の指揮で本丸から西の丸へ至る出口の畳を一畳ずつ裏返して目印にしたので、女中たちも迷わずに避難が出来たそう。

その後も江戸城は火の手が止まず、将軍家綱に場外へ避難の案が出たが、阿部忠秋が西の丸に火が移っても本丸跡に陣屋を建てて軽々しく城外へ出るべきでないと主張して、将軍家綱は西の丸に留まったということ。

また、大火の翌日には信綱が関東中に対し、江戸城が焼失したが将軍には問題ないことなどのお触れを出し、大坂へも使者を送って道中各所で将軍の無事を告げさせ、将軍安泰を告げる飛脚を全国各地に派遣したそう。

3-2、幕府の被災者対策

幕府はすぐに陸奥磐城平藩の内藤忠興ら4大名に、被災者へ一日千俵の粥の炊き出しを命じ、この炊き出しは2月12日まで続けられ6千石使われたということ。また保科正之が浅草の米蔵の焼け米を被災者に放出、幕府は火災直後の米価騰貴対策を行い、価格上限を定めて紀伊和歌山藩からの献上米千俵を安価で販売。また時価の倍の金額で諸国から米を大量に搬送させ、被災者に食料を大量に供給することに。

そして家を焼け出された町民には救助金16万両を支給したが、幕閣が、幕府の金蔵が空になるではないかと反対するのに対して、保科正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ貯蓄がないのも同然」と一喝。

大火後に材木相場が急騰したが、幕府は、江戸城再建の3年延期、江戸復興の材木は天領からまかなって、民間から買い上げない、大名屋敷再建の優先順位を下げるという噂を流したので、材木商たちが材木を手放して材木相場が急落。尚、豪商河村瑞賢はこのときの材木相場で大儲けしたということ。

そして、火事の際に参勤交代で江戸にいた諸大名に帰国命令を、国許の大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知。これは、参勤交代で江戸に来る各藩の家臣を減らすことで、江戸市民の米や食料の需給を少しでも確保するための処置で、幕府の権威よりも被災者である民衆の生活安定を優先した柔軟な考え方ということ。

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