今回は明暦の大火を取り上げるぞ。江戸時代の4代将軍家綱の時代に起こった大惨事ですが、原因とかいろいろ知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、明暦の大火について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、明暦の大火とは

明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年(1647年)1月18日から20日に江戸で起こった大火事で、江戸城を含めた江戸の街のほとんどが焼失。別名としては、この年の干支からの丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況からの振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事とも。

1-2、明暦の大火の起きた背景

江戸幕府4代将軍家綱の時代、家綱は11歳で将軍になりこのときは17歳。保科正之、松平信綱ら、3代家光時代からのしっかりした補佐役ががんばっていた頃。

当時の様子を記録した浅井了意による仮名草子の「むさしあぶみ」には、「明暦2年(1646年)11月から雨が80日以上降っておらず、非常に乾燥した状況が続いていて、当日は辰の刻(午前8時ごろ)から北西風が強く吹いて人々の往来がまばら」だったということ。

1-3、明暦の大火の発生と経過

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歌川広重 - Online Collection of Brooklyn Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる

この火災は、火元が1か所ではなくて、本郷、小石川、麹町の3か所から連続的に発生したということ。最初の火災が終息しようとしたところに次の火災が発生、結果的に江戸市街の6割方、それも家康開府以来の古い密集した市街地がすべて焼失。 ということで、放火の疑いも。

3か所にわたった出火の経過は、最初が明暦3年(1647年)1月18日未の刻(14時頃)で、本郷丸山の本妙寺より出火して神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだということ。そして霊巌寺で炎に追い詰められて約1万人の避難民が死亡、浅草橋では、脱獄の誤報を信じた役人によって門が閉ざされたので逃げ場を失った2万人以上が死亡。

次は翌日の1月19日巳の刻(朝10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所から出火し、飯田橋から九段一帯まで延焼、江戸城の本丸、二の丸、天守を含む大半が焼失し、将軍は焼け残った西の丸に避難。

3つ目は、1月19日申の刻(夕方16時頃)、麹町5丁目の民家より出火し、南東方面へ延焼して新橋の海岸に至った後に鎮火。

1-4、明暦の大火の被害状況

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田代幸春 - 戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

死者数は「むさしあぶみ」では約10万2千人、「上杉家譜」では約3万7千人、「元延実録」では約6万8千人ということで、焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余り、江戸城までが焼失したという大惨事に。

\次のページで「2-1、明暦の大火の火元は」を解説!/

2-1、明暦の大火の火元は

これだけの大火災ですが、火元となった場所には諸説あり。

2-2、本妙寺失火説

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Tobosha (逃亡者) - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

本郷にあった本妙寺の失火が原因とする伝承は、振袖火事の別名の由来にも。

この話は、まず、江戸麻布の裕福な質屋、遠州屋の娘梅乃(17歳)が、本郷の本妙寺に母親と墓参りに行った帰りに、上野の山ですれ違った寺小姓らしき美少年に一目ぼれ。梅乃はこの日から寝てもこの美少年寺小姓のことが忘れられずに食欲もなくし、寝込んでしまう。そして両親に美少年寺小姓が着ていた服と同じ、荒磯と菊の柄の振袖を作ってもらって、その振袖をかき抱いて思い焦がれる日々だったが、病は悪化して梅乃は死亡。両親は葬礼の日、供養のために梅乃の棺に形見の振袖をかけたそう。

当時の風習として棺にかけられた遺品などは、本妙寺の寺男たちのものとなり転売に。そして上野の町娘きの(16歳)のものとなったが、きのも病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、梅乃の命日に本妙寺に持ち込まれたということ。寺男たちはまたその振袖を売り、振袖は別の町娘いく(16歳)の手に渡ったが、いくも病気で亡くなり、振袖はまたも棺にかけられて本妙寺に。

3度目となればさすがに寺男たちは因縁を感じ、住職がこの振袖を寺で焼いて供養するため、読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、北方から突然強風が吹き、裾に火のついた振袖が空に舞い上がって寺の軒先に舞い落ちて火が燃え移り、たちまち炎が大屋根を覆ったうえに突風に煽られ、湯島6丁目方面、駿河台へと燃え広がって、ついに江戸の町を焼き尽くすことに。

この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、明治後に小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著したが、伝説の誕生は大火後まもなくの時期で、同時代で明暦の大火を取材した浅井了意は「作り話」と結論づけたそう。

2-3、隣の老中が真犯人で本妙寺が火元を引受けた説

じつは火元は老中阿部忠秋の屋敷だったが、老中の屋敷の火の不始末が原因ということが明らかになると、幕府の威信が失墜してしまうために、幕府が阿部の屋敷の隣の本妙寺が火元ということにして、因縁の振袖の話を広めたとする説。

なぜかといえば本妙寺は、これだけの大火事の火元なのに、明暦の大火後も取り潰しにあわず、元の場所に再建を許され、触頭(各宗派ごとに寺社奉行などから任命された特定の寺院のことで、本山及その他寺院との上申下達などの連絡、地域内の寺院の統制も行う)にまで格が上がって明暦の大火前より大きな寺院となっていること。そしてその後、大正時代にいたるまで、老中の阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどが理由。

また明治以後になって本妙寺が「本妙寺火元引受説」を主張しているそう。

2-4、幕府による放火説

当時の江戸は、急速な発展での人口増加で、住居の過密化、衛生環境の悪化からの疫病の流行、治安の悪化で連日のように殺人事件が発生する有様で、都市機能が限界に来ていたということ。しかし都市改造をするためには、いつの時代でも住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁に。

そこで幕府は江戸市街を焼け野原にし、一気に都市改造をするよう計画したという説あり。実際、明暦の大火後に都市改造が行われたのだが、江戸城の本丸に天守閣まで焼失という大きな被害があったことを考えると、幕府が計画して放火したとしても、お粗末としか言い様が。

2-5、由比正雪の残党の放火説

当時、巷に最も広まっていた出火の原因は不逞浪人による放火で、6年前に幕府転覆を図った由井正雪一派の慶安の変の残党が報復のために放火した説も。

3-1、明暦の大火後の幕府の対応

このときの幕閣は老中酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋に加えて大政参与の保科正之、井伊直孝らがいたが、明暦の大火の際に中心となって活躍したのが松平信綱。
江戸城本丸の焼失で将軍家綱以下幕閣は西の丸に移った際、信綱の指揮で本丸から西の丸へ至る出口の畳を一畳ずつ裏返して目印にしたので、女中たちも迷わずに避難が出来たそう。

その後も江戸城は火の手が止まず、将軍家綱に場外へ避難の案が出たが、阿部忠秋が西の丸に火が移っても本丸跡に陣屋を建てて軽々しく城外へ出るべきでないと主張して、将軍家綱は西の丸に留まったということ。

また、大火の翌日には信綱が関東中に対し、江戸城が焼失したが将軍には問題ないことなどのお触れを出し、大坂へも使者を送って道中各所で将軍の無事を告げさせ、将軍安泰を告げる飛脚を全国各地に派遣したそう。

3-2、幕府の被災者対策

幕府はすぐに陸奥磐城平藩の内藤忠興ら4大名に、被災者へ一日千俵の粥の炊き出しを命じ、この炊き出しは2月12日まで続けられ6千石使われたということ。また保科正之が浅草の米蔵の焼け米を被災者に放出、幕府は火災直後の米価騰貴対策を行い、価格上限を定めて紀伊和歌山藩からの献上米千俵を安価で販売。また時価の倍の金額で諸国から米を大量に搬送させ、被災者に食料を大量に供給することに。

そして家を焼け出された町民には救助金16万両を支給したが、幕閣が、幕府の金蔵が空になるではないかと反対するのに対して、保科正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ貯蓄がないのも同然」と一喝。

大火後に材木相場が急騰したが、幕府は、江戸城再建の3年延期、江戸復興の材木は天領からまかなって、民間から買い上げない、大名屋敷再建の優先順位を下げるという噂を流したので、材木商たちが材木を手放して材木相場が急落。尚、豪商河村瑞賢はこのときの材木相場で大儲けしたということ。

そして、火事の際に参勤交代で江戸にいた諸大名に帰国命令を、国許の大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知。これは、参勤交代で江戸に来る各藩の家臣を減らすことで、江戸市民の米や食料の需給を少しでも確保するための処置で、幕府の権威よりも被災者である民衆の生活安定を優先した柔軟な考え方ということ。

\次のページで「3-3、死者の埋葬と回向院の建立」を解説!/

3-3、死者の埋葬と回向院の建立

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Tobosha (逃亡者) - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬、増上寺の法主遵譽貴屋に命じて法事を修させ、後に供養のために回向院が建立されたということ。

3-4、江戸の都市改造も

image by PIXTA / 39746892

明暦の大火の復興として江戸の都市改造が行われ、北の丸にあった御三家の屋敷が江戸城外に転出に。また武家屋敷、大名屋敷、寺社の移転、そして市区の改正が行われ、防衛重視で千住大橋だけしかなかった隅田川に、両国橋や永代橋などが設置されたことで、隅田川東岸に深川など市街地が拡大されることとなり、吉祥寺や下連雀など郊外への移住もさかんになったそう。防災の取り組みとしては、火除地や延焼を遮断する防火線としての広小路の設置。防火のための建築規制として、耐火建築の土蔵造や瓦屋根の奨励も。

また、西の丸以外はすべて焼失した江戸城は本丸、二の丸、三の丸が再建されたが、天守閣は再建されず。保科正之は、今のようなときに天守閣を建設するのは庶民の迷惑と言ったそう。

4-1、明暦の大火の逸話

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Terajima Ryōan (寺島良安, Japanese, *1654, †?) - scanned from ISBN 978-4-642-08583-0., パブリック・ドメイン, リンクによる

明暦の大火は、明和の大火、文化の大火と並んで江戸三大大火と言われるが、明暦の大火の被害は延焼面積、死者ともに江戸時代最大のもので、関東大震災や東京大空襲などその後の震災や戦災を除いても日本史上最大の災害で、世界史上有名なローマ大火、ロンドン大火に匹敵するという悲惨な大火事。逸話をいくつかご紹介しますね。

4-2、大奥では髪を結うように

大奥の女性たちは、この明暦の大火以前は、ロングヘアを結わずに安土桃山時代とおなじく垂髪にしていたが、避難するときに邪魔になった教訓からか、以後、一般の武家女性や町娘と同じように日本髪を結うようになったそう。

4-3、車付き長持ちの禁止

狭い道を多くの民衆が荷物を持って避難する際、長持ちの底に車輪のついた「車長持」で家財道具を運び出したために渋滞が発生し、死者数増大の一因となり、車長持の製造販売が禁止に。

\次のページで「4-4、囚人切り放ちのきっかけに」を解説!/

4-4、囚人切り放ちのきっかけに

明暦の大火の際に、小伝馬町の牢屋奉行の石出帯刀吉深が、火が迫ってきたので牢に入った罪人たちを哀れんで、火事から逃げて命があれば必ず戻ってくるように申し伝えて罪人たちを一時的に解き放つ、「切り放ち」を独断で実行。罪人たちは涙を流して吉深に感謝、全員が約束通り戻ってきたということ。吉深は感激して「罪人たちは大変に義理深い者たち」として「死罪も含めた罪一等を減ずるように」と、老中へ進言し、減刑の処置が行われたそう。以後、緊急時の牢屋の「切り放ち」が制度化されることに。

4-5、明暦の大火の消防の体制は

明暦の大火の当時は、寛永20年(1643年)、譜代大名を4組ごとに編成した大名火消が創設されていて、町火消としては慶安元年(1648年)に、火災発生時には火元の町人が全員参加で消火活動にあたらせ、不参加者は罰金、2時間交替の夜番、町役人による見回りなどの「駆付火消」が制定され、各家では手桶に水を汲みおきはしごを用意などが命じられていた程度。

現在のように水道や放水車もないうえ、大名火消しは江戸城周辺や武家屋敷オンリーで、燃えやすい木造の建物が立ち並ぶという構造的な問題もあったということ。

4-6、林羅山は蔵書が焼失してショック死

当時74歳の高名な儒学者林羅山は、自邸と書庫が焼失したことで衝撃を受けて4日後に死去。

4-7、復興と財政赤字

明暦の大火からの復興と都市改造によって江戸は大都市の都市基盤が整い、人口が集中し、経済活動が活性化することになったが、復興のための費用は莫大なものとなり、幕府の慢性的な財政赤字のきっかけに。この財政危機のために幕閣は財政政策に対する関心を高めていき、様々な改革が断行されることに。

4-8、その他の逸話

当時、江戸に参府に来ていたオランダ商館長ツァハリアス・ヴァグナー一行も大火に遭遇。

また、将軍家の家宝で天下三肩衝のひとつ楢柴肩衝(高名な茶入れ)がこの大火で破損し修繕されたが、まもなく所在不明に。

そして多くの名刀のほか、侍諸氏の常備の刀も多く焼けたせいで、数万振の規模の刀剣需要が起こり、それが「寛文新刀」といわれる鍛刀の盛り上がりにつながったということで、長曾祢虎徹、江戸法城寺正弘などの江戸の刀工に加えて、大坂新刀の津田助広、井上真改、肥前陸奥守忠吉などの名刀工が続出することに。

未曽有の大惨事に謎を呼ぶ火元、幕府の対応はさすがの保科と信綱

明暦の大火は火事と喧嘩は江戸の華と言われた江戸で起こった最大級の火事として有名。火元とされた本妙寺の振袖の話はオカルトっぽく、振袖火事という別名にもなっているのにいまさら作り話といわれても困るのですが、隣接の老中屋敷が火元で隣の本妙寺がそういう伝説を作って火元を引き受けたというのは、それ以上に興味深い話ではあります。また、江戸幕府は武家社会とはいえ、被災民に対して行った救済策や江戸城の天守閣を再建しなかったのは、当たり前とはいえ名君保科正之と松平信綱と感心してしまうはず。

大惨事で多くの犠牲者が出たのは何百年もたった今読んでも心が痛みますが、命は助かったのに、大事な蔵書が焼失したショックで亡くなったという高名な儒者林羅山にも、読書家の端くれとしてはかなり同情してしまうかも。

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日本史歴史江戸時代

江戸時代最大級の大災害「明暦の大火」3大火事のひとつについて歴女がわかりやすく解説

今回は明暦の大火を取り上げるぞ。江戸時代の4代将軍家綱の時代に起こった大惨事ですが、原因とかいろいろ知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、明暦の大火について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、明暦の大火とは

明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年(1647年)1月18日から20日に江戸で起こった大火事で、江戸城を含めた江戸の街のほとんどが焼失。別名としては、この年の干支からの丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況からの振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事とも。

1-2、明暦の大火の起きた背景

江戸幕府4代将軍家綱の時代、家綱は11歳で将軍になりこのときは17歳。保科正之、松平信綱ら、3代家光時代からのしっかりした補佐役ががんばっていた頃。

当時の様子を記録した浅井了意による仮名草子の「むさしあぶみ」には、「明暦2年(1646年)11月から雨が80日以上降っておらず、非常に乾燥した状況が続いていて、当日は辰の刻(午前8時ごろ)から北西風が強く吹いて人々の往来がまばら」だったということ。

1-3、明暦の大火の発生と経過

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歌川広重Online Collection of Brooklyn Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる

この火災は、火元が1か所ではなくて、本郷、小石川、麹町の3か所から連続的に発生したということ。最初の火災が終息しようとしたところに次の火災が発生、結果的に江戸市街の6割方、それも家康開府以来の古い密集した市街地がすべて焼失。 ということで、放火の疑いも。

3か所にわたった出火の経過は、最初が明暦3年(1647年)1月18日未の刻(14時頃)で、本郷丸山の本妙寺より出火して神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだということ。そして霊巌寺で炎に追い詰められて約1万人の避難民が死亡、浅草橋では、脱獄の誤報を信じた役人によって門が閉ざされたので逃げ場を失った2万人以上が死亡。

次は翌日の1月19日巳の刻(朝10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所から出火し、飯田橋から九段一帯まで延焼、江戸城の本丸、二の丸、天守を含む大半が焼失し、将軍は焼け残った西の丸に避難。

3つ目は、1月19日申の刻(夕方16時頃)、麹町5丁目の民家より出火し、南東方面へ延焼して新橋の海岸に至った後に鎮火。

1-4、明暦の大火の被害状況

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田代幸春 – 戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

死者数は「むさしあぶみ」では約10万2千人、「上杉家譜」では約3万7千人、「元延実録」では約6万8千人ということで、焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余り、江戸城までが焼失したという大惨事に。

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