その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、明暦の大火とは
- 1-2、明暦の大火の起きた背景
- 1-3、明暦の大火の発生と経過
- 1-4、明暦の大火の被害状況
- 2-1、明暦の大火の火元は
- 2-2、本妙寺失火説
- 2-3、隣の老中が真犯人で本妙寺が火元を引受けた説
- 2-4、幕府による放火説
- 2-5、由比正雪の残党の放火説
- 3-1、明暦の大火後の幕府の対応
- 3-2、幕府の被災者対策
- 3-3、死者の埋葬と回向院の建立
- 3-4、江戸の都市改造も
- 4-1、明暦の大火の逸話
- 4-2、大奥では髪を結うように
- 4-3、車付き長持ちの禁止
- 4-4、囚人切り放ちのきっかけに
- 4-5、明暦の大火の消防の体制は
- 4-6、林羅山は蔵書が焼失してショック死
- 4-7、復興と財政赤字
- 4-8、その他の逸話
- 未曽有の大惨事に謎を呼ぶ火元、幕府の対応はさすがの保科と信綱
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、明暦の大火について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、明暦の大火とは
明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年(1647年)1月18日から20日に江戸で起こった大火事で、江戸城を含めた江戸の街のほとんどが焼失。別名としては、この年の干支からの丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況からの振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事とも。
1-2、明暦の大火の起きた背景
江戸幕府4代将軍家綱の時代、家綱は11歳で将軍になりこのときは17歳。保科正之、松平信綱ら、3代家光時代からのしっかりした補佐役ががんばっていた頃。
当時の様子を記録した浅井了意による仮名草子の「むさしあぶみ」には、「明暦2年(1646年)11月から雨が80日以上降っておらず、非常に乾燥した状況が続いていて、当日は辰の刻(午前8時ごろ)から北西風が強く吹いて人々の往来がまばら」だったということ。
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1-3、明暦の大火の発生と経過
歌川広重 – Online Collection of Brooklyn Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる
この火災は、火元が1か所ではなくて、本郷、小石川、麹町の3か所から連続的に発生したということ。最初の火災が終息しようとしたところに次の火災が発生、結果的に江戸市街の6割方、それも家康開府以来の古い密集した市街地がすべて焼失。 ということで、放火の疑いも。
3か所にわたった出火の経過は、最初が明暦3年(1647年)1月18日未の刻(14時頃)で、本郷丸山の本妙寺より出火して神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだということ。そして霊巌寺で炎に追い詰められて約1万人の避難民が死亡、浅草橋では、脱獄の誤報を信じた役人によって門が閉ざされたので逃げ場を失った2万人以上が死亡。
次は翌日の1月19日巳の刻(朝10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所から出火し、飯田橋から九段一帯まで延焼、江戸城の本丸、二の丸、天守を含む大半が焼失し、将軍は焼け残った西の丸に避難。
3つ目は、1月19日申の刻(夕方16時頃)、麹町5丁目の民家より出火し、南東方面へ延焼して新橋の海岸に至った後に鎮火。
1-4、明暦の大火の被害状況
田代幸春 – 戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる
死者数は「むさしあぶみ」では約10万2千人、「上杉家譜」では約3万7千人、「元延実録」では約6万8千人ということで、焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余り、江戸城までが焼失したという大惨事に。
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