

近年、日本では天皇陛下の生前退位が話題になり、2019年に令和の時代が訪れた。最も、天皇陛下の生前退位は平安時代・鎌倉時代においては何も珍しくない。
皇位を譲って天皇を退くと上皇となって政務を行う、これが院政のシステムだが、簡単な説明だと少々分かりづらいだろう。そこで、今回は院政について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から院政をわかりやすくまとめた。
藤原北家の摂関政治
院政とは、皇位を譲った上皇や法皇が天皇に代わって政務を行う政治体制であり、上皇を「院」とも呼ぶことから院による政治……すなわち院政の名がつきました。さて、この院政を深く理解するため歴史は平安時代の中期、藤原北家が権力を握っていた時代まで遡ります。
藤原北家は全盛期において天皇を超える地位を手にしており、その理由は摂関政治にありました。まず藤原家出身の娘を天皇に嫁がせ、その間に誕生した息子を天皇にします。そうすることで天皇家の外祖父としての地位を確立させ、幼く未熟な天皇に代わって政治を行うのが摂関政治のシステムです。
しかし、長く順調だった摂関政治に陰りが見えたのは、藤原頼通(ふじわらのよりみち)の頃に娘が誕生しなかったのがきっかけでした。藤原北家にとって、摂関政治は娘を天皇に嫁がせてこそ成り立つものであり、嫁がせる予定の娘が誕生しなかったことで、1068年に藤原家の血が薄い後三条天皇が即位したのです。
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後三条天皇の藤原家への厳しい措置
後三条天皇の即位によって藤原家の摂関政治の力が衰え、一方で天皇の力が再び強くなっていきます。後三条天皇は重役に藤原氏を選ばず、代わりに村上源氏を選ぶ動きをとったため、藤原家は政治の世界から徐々に遠ざかってしまい、その権力は低下していきました。
さらに追い打ちをかけるかのごとく、後三条天皇は延久の荘園整理令を出します。これは違法な荘園の整理を行うもので、当時日本の各地には摂関家領や大寺社領と呼ばれる違法な荘園が多く存在しており、それが藤原氏の収入源となっていた一方で国の財政を苦しめていました。
そこで後三条天皇は記録荘園券契所を設置して違法な荘園の整理を開始、それに該当していた藤原家の荘園を次々と没収していき、藤原家の権力をより低下させたのです。こうして天皇の権力を取り戻すための基盤を作ると、自らは退位して新たに白河天皇へと譲位しました。
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摂関政治で権力を高めた藤原北家だが、天皇に嫁ぐ娘が誕生しなかったことで流れは変わった。そして、後三条天皇は藤原家の権力を弱体化させた上で白河天皇へと譲位した。こうして、再び天皇が権力を高めていくのだ。
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