日本史歴史江戸時代

保科正之らの補佐で影の薄い「徳川家綱」江戸幕府4代将軍について歴女がわかりやすく解説

3-2、保科正之の提唱で、文治政治へ切り替え

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? – 土津神社, パブリック・ドメイン, リンクによる

名君の誉れ高い保科正之が、自藩の会津藩でも行った殉死の禁止令や、末期養子の禁を緩和、大名証人制度の廃止などを実施して、これまでの武力で圧力をかけた武断政治から文治政治への政策を転換。家綱は、保科正之には何かにつけても将軍名代の役割を命じ、正之が老齢で目が不自由になっても傍に置きたがり、正之の病状が悪化すると近臣に様子を尋ねるなど頼り切っていたよう。

また保科正之は明暦の大火で焼失した江戸城天守閣の再建問題についても、戦のない世のなかに天守閣は不要と発言、天守閣の再建を行わずに再建費用を、難民の救済、江戸の街の再建のために使い、大規模な火災対策として、主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に広げ、火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させ、玉川上水を開削、江戸市民の飲用水の安定供給も行ったそう。

殉死について
殉死は、3代家光の頃までは、武士の世界ではむしろ普通に行われ、主君が亡くなると最も信頼が篤かった家臣が殉死しなければいけない風潮すらあったそう。これは、主人と家来の主従関係が個人的なものであったということで、主人の遺児に対する忠誠はまた別であったのですね。

こういう殉死についての考え方を、保科正之主導で家綱の時代には無益なこととして禁止し、主君の死後はその後継ぎに忠誠を誓い奉公することを義務付けたので、家臣が主君の家族やその子孫の家代々に仕えるという新たな価値観が芽生え、戦国時代にあった無能な主君を倒して取って代わる下克上の風潮は消えることに。

3-3、家綱の治世の後半期

松平信綱らの寛永の遺老と呼ばれた老中たちは、寛文年間には相次いで死去、老齢で隠退し。代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任、寛文延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意による政治運営に。

家光の時代に起きた寛永の大飢饉から教訓を得た飢饉対策で農政を重点にして、切支丹禁止のため、宗門改の徹底と全国の宗門人別改帳の作成命令、諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、そして河村瑞賢に命じた東廻海運、西廻海運を開拓といった全国的な流通経済政策が展開、「本朝通鑑」編纂などの文化事業も。江戸幕府も4代目となると幕府職制の整備が完成をみて幕府と朝廷との関係も安定、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起、イングランド船リターン号による通商再開要求、鄭氏政権による援兵要請などが起こるも、家光期以来の鎖国政策が堅持されたということ。

3-4、家綱の後継者問題

家綱は生まれつき体が弱く、30代半ばになってもひとりも子供がいない状態。正室との間に子供はなし、側室お振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産。なので将軍継嗣問題が取りざたされていたが、家綱は延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れて危篤状態に陥ったため、老中堀田正俊の勧めを受け、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣と決定直後の5月8日に40歳で死去。死因は不明だが、急性の心臓発作などではないかと言うこと。家綱の死で、徳川将軍家の長男系統が断絶に。

3-5、宮将軍を迎える説

 また、家綱危篤の際、「下馬将軍」との異名をとる大老・老中酒井忠清が、鎌倉時代に将軍源実朝の死後、宮将軍を迎えた例があるために、家綱の祖父秀忠の兄で結城秀康の血を引く(実際は血縁関係はない)有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、堀田正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説あり。

家綱弟の綱吉が5代将軍に就任すると、酒井忠清は老中を解任、そして解任から1年後に突如死亡したので、綱吉は自殺ではと疑問を抱いて「墓を掘り起こせ」と命じて執拗に検死を求めたなど、自分を差し置いて宮将軍を迎えようとした酒井に対し、遺恨を持っていたらしいということ。しかし近年になって、酒井忠清の宮将軍擁立を否定する説も。

4-1、家綱の逸話

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狩野安信 – The Japanese book “Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household”, パブリック・ドメイン, リンクによる

あまり目立たないが、心温まるエピソードがあります。

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