日本史歴史江戸時代

保科正之らの補佐で影の薄い「徳川家綱」江戸幕府4代将軍について歴女がわかりやすく解説

2-1、家綱の時代に起こった主な事件

家光から家綱の時代は、武断政治から文治政治への転換期と言われていますが、11歳の将軍で政情不安となり色々な事件が起こりました。

2-2、由比正雪の乱

慶安の役ともいい、軍学者由比正雪(ゆいしょうせつ)が将軍代替わりに乗じて江戸幕府転覆を狙ったが未遂に終わった事件。

江戸時代初期は、戦争もなくなり、また関ヶ原の戦い、大坂の陣以降、多数の大名が減封や改易されたことで、失業した浪人の数が激増。浪人たちの再仕官の道も厳しいうえに、鎖国政策で山田長政のように日本国外に出る道も断たれたこともあって、巷に多くの浪人があふれていたそう。なかには武士をやめて百姓、町人に転じるものも多かったが、多くの浪人たちは、幕府の政治に対して否定的な考えを持っていたり、生活苦から盗賊や追いはぎなど犯罪の道に走る者も存在、大きな社会問題になっていました。

そういうご時世に、由比正雪は各地の大名家、徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていたという優秀な軍学者だったが、士官を断って私塾の軍学塾の張孔堂を開き、多数の塾生を集めていたということ。正雪は幕府への士官を断ったことで、幕府に不満を持つ浪人たちの共感を呼び、支持を集めることに。

そして慶安4年(1651年)3代将軍家光の死の直後、幕府の政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などの由比正雪の仲間が各地で浪人を集めて挙兵し、幕府転覆を計画。しかし決起寸前になって密告され、正雪は駿府の宿で町奉行の捕り方に囲まれて自刃。事件は未遂に。

しかし正雪の遺品から、紀州藩主徳川頼宣の書状が発見されて頼宣の計画への関与疑惑が起こったが、後に偽造とされ、頼宣も表立った処罰はなし。その後も幕府は事件の背後関係を徹底的に詮索、大目付中根正盛が与力20余騎を派遣、配下の隠密機関を活用、特に紀州の動きについてくわしく調べさせた結果、松平信綱と堀田正盛は、武功派で幕閣に批判的な紀州藩主徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚させて、武功派勢力を一掃したということ。

2-3、承応の変

承応の変(じょうおうのへん)は、戸次庄左衛門の乱、承応事件とも言い、慶安5年(1652年)9月、別木庄左衛門、林戸右衛門、三宅平六、藤江又十郎、土岐与左衛門が首謀者として起きた事件。

この事件は、浪人の別木庄左衛門が、同士数人とともに増上寺で営まれる徳川秀忠正正室だった崇源院の27回忌の法要の際に、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうとした計画で、仲間の1人が老中松平信綱に密告し、庄左衛門らは捕らえられて、処刑。また備後福山藩士で軍学者石橋源右衛門も、計画を打ち明けられたが幕府に知らせなかったために磔刑に。老中阿部忠秋の家臣の山本兵部も、庄左衛門と交際があったために山本は切腹。 事件から5日後の9月18日に承応元年と改元、事件が決着したのが改元後なので承応の変、承応事件。

由比正雪の乱と承応の変を受けて、幕府はそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れたということ。

2-4、明暦の大火

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Tobosha (逃亡者) – 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

明暦の大火(めいれきのたいか)とは、明暦3年(1657年)1月18日から20日までに起こった江戸の大火災で江戸の3大大火のひとつ。別名を丁酉火事(ひのととりのかじ)、振袖火事(ふりそでかじ)、丸山火事(まるやまかじ)など。

明暦の大火、明和の大火、文化の大火が江戸3大大火だが、明暦の大火の被害は延焼面積、死者ともに江戸時代最大で、江戸城外堀以内のほぼ全域、天守を含んだ江戸城、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失。死者数は諸説あって3万から10万と記録。この大火で焼失した江戸城天守はその後再建されず。関東大震災や東京大空襲などの戦禍、震災を除いて日本史上最大の火災で、世界史的にみてローマ大火、ロンドン大火、明暦大火を世界3大大火とされることも。

尚、この大火の火元は1か所ではなく、本郷、小石川、麹町の3か所から連続的に発生、結果的に江戸市街の6割にあたる、家康開府以来から続く古い密集した市街地がすべて焼失したことで、幕府は江戸の都市改造を行うようになったので、幕府による放火説まであるということ。

また、若い娘が亡くなり棺にかけられた振袖を本妙寺の寺男が転売した結果、その振袖が3人目の若い娘の棺にかけられて戻ってきたことで、本妙寺で振袖を供養することになり、住職が読経しつつ護摩の火中に振袖を投げこむと北方から強風が吹いて裾に火のついた振袖が空に舞い上がり、炎となって寺の大屋根をおおって、江戸の街に燃え広がったという振袖火事の名前の由縁は作り話ではということ。

2-5、伊達騒動

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伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に仙台伊達藩で起こったお家騒動。黒田騒動、加賀騒動または仙石騒動と並んだ3大お家騒動のひとつ。

仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧で、叔父の一関藩主伊達宗勝(正宗の10男)が諌言したが聞き入れず。宗勝は親族の岡山藩主池田光政、柳川藩主立花忠茂、宮津藩主京極高国と相談、老中酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴。しかし綱宗の放蕩は止まなかったので、万治3年(1660年)7月9日に家臣と親族大名らの連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出、7月18日には幕府によって綱宗は21歳で強制隠居させられて2歳の伊達綱村が4代藩主に。

綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るうように。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が。 そして奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達家)と、宗勝の甥の伊達宗倫(登米伊達家)の所領紛争が勃発、宗重は裁定案を受け容れたが、宗勝の寵臣の今村らの行った郡境検分で問題が生じて伊達宗勝派の専横を幕府に上訴。

寛文11年(1671年)3月7日に行われた審問で、幼少の藩主伊達綱村への処分がないことが確定したが、3月27日に酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われたとき、審問中の控え室で、原田宗輔はその場で伊達宗重を斬殺、老中のいる部屋に向かって突入、驚いた柴田朝意は原田と斬りあいになって負傷。聞役だった蜂屋可広も柴田に加勢、しかし混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田、蜂屋も翌日死亡。

関係者が死亡したため、事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無し、酒井大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家、裁判の争点となった宗勝派、藩主の代行としての責任で両後見人が処罰、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易に。

3-1、家綱、補佐に恵まれ政情不安を乗り切る

家綱の継承時は、由比正雪の乱などが起こったが、叔父にあたる保科正之や、家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣らのおかげで危難を乗り越え、以後29年間にわたる安定政権に。また、後に春日局の孫である稲葉正則らも幕閣に加わって、幕府機構がいっそうの整備をされることに。

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