

その辺のところを江戸時代と徳川将軍家に目のないあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸幕府の将軍や殿様にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川家綱について、5分でわかるようにまとめた。
1-1、徳川家綱は家光の長男

徳川家綱(いえつな)は、3代将軍家光の長男として、寛永18年(1641年)に江戸城本丸で誕生。母は側室のお楽の方で、家光37歳にして初の男の子。
当然徳川宗家の長男の幼名である竹千代と命名。きょうだいは、異母姉の千代姫、弟が夭折した2人を含めて4人、後に甲府宰相と言われた綱重、5代将軍綱吉。
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家綱の母お楽の方の出自
家綱を産んだお楽の方は下野国の農民で後に下級武士となった青木三太郎利長の娘といわれていて、父青木は江戸に出て旗本の朝倉家に仕官したが、なんと主君朝倉家の金を使い込んで江戸を追われ鹿麻村で蟄居、そこで禁猟の鶴を撃って死罪となった人。お楽の方は父の死後、母と江戸へ出、母は古河藩主永井尚政の屋敷の女中頭となった後に、元永井家家臣で古着商の七沢清宗と再婚。お楽の方は13歳の時、店の手伝い中に浅草参りの帰途の家光乳母で大奥の実力者春日局の目にとまり、大奥へ(春日局の腹心、祖心尼の計らい説もあり)。お楽の方が故郷の麦搗き歌を歌っていたのを家光が耳にして気に入り、側室となったそう。
元はお蘭という名前だったが縁起が悪いとお楽と改名、家綱が将軍嗣子となると、家綱とともに西の丸に。お楽の方が将軍後継者を産んだために、お楽の方の弟の増山正利は三河国西尾藩主に、もう一人の弟は那須資弥となって下野国烏山藩主となり、妹は今川氏真の孫品川高如の妻と、俗にいう蛍大名のお仲間に。
1-2、家綱の子供時代
まだ竹千代と言った頃の家綱は、ある日、遠島に処せられた罪人の話を聞いて「彼らは何を食べているのか」と近臣に聞いたが誰も知らなかったそう。さらに「命を助けて流罪にしておいて、なぜ食べ物を与えないのか」と至極まともな正論を。家光はそれを聞いて喜んで、「竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じて、流罪人に食料を与えるようになった話が。
また「武野燭談」には、将軍就任から間もないころに家綱が、まだ存在していた江戸城天守閣へ登った際、近習の者が遠眼鏡を勧めたのに対して、「余は将軍であるゆえ、もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れた場合、恐らく庶民は嫌な思いをするだろうに違いない」と断ったという話も。よく気の付く育ちの良い坊やだったようですね。

ほほう、なかなか素直で相手の気持ちを考えられるいい子じゃないか。
1-3、家綱、11歳で将軍に
正保元年(1644年)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645年)4月に元服。慶安3年(1650年)9月に将軍世子として西の丸へ。そして慶安4年(1651年)4月、父の家光が48歳で死去、家綱は11歳で4代将軍に。
父家光は死去に際して、異母弟の保科正之に息子を頼むと後事を託し、兄というより絶対的な主君として仕えていた正之は4代将軍輔佐役(大政参与)となり、老中には就任していないが、輔佐役(大政参与)老中の上の存在に。そして譜代の井伊直孝、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋という有能な人たちも、がっちりと家綱を補佐。
尚、家光までは京都へ行き天皇から将軍宣下を受けていましたが、家綱は京都へ行かずに江戸城で将軍宣下を受けたことで、今後も将軍宣下が江戸で行われる前例になったそう。
1-4、家綱、伏見宮家の王女と結婚
家綱は、明暦3年(1657年)16歳のときに、伏見宮貞清親王の3女で一つ年下の浅宮顕子女王(あきこじょおう)と結婚。顕子女王の姉は紀州藩主徳川光貞の正室の安宮照子(天親院)で、後の8代将軍吉宗の正室の真宮理子は姪 。
尚、家綱との間に子供はなく、延宝4年(1676年)に乳癌を発症したが医師の触診を拒否し、同年8月5日に37歳で死去。
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